「天皇制」の創作

明治期に作られた「天皇制」をなにか古代から引き継がれた歴史のように語る人もいるが、本当だろうか。

>孝明天皇が1866(慶応二)年12月25日に死去し、翌1867(同三)年1月9日、睦仁親王は践祚して122代明治天皇となる。
 260年余続いた江戸幕府に取って代わって「維新政府」が誕生したのは、明治天皇臨御のもと、この年の12月9日に開かれた「小御所会議」の場であった。
 ここで王政復古の大号令が発せられるのだが、これは岩倉具視ら急進派の一部公家と薩摩藩が画策したクーデターといえるものだった。当時天皇は16歳。会議ではひと言も発せず、人形のように座っているだけだった。
 維新勢力が傀儡の天皇を利用して、徳川家に代わって政権を奪取しようとする陰謀を嗅ぎ取った前土佐藩主の山内容堂が「幼冲(ようちゅう)の天子を擁して」と有名な言葉で岩倉らを難詰した。

山内容堂の指摘はずばりそのものでしたが、力で勝ち取った政権を覆すことは難しかったのです。

まず、天皇制ということで思い浮べるのは、「万世一系」というものです。
しかし、天皇の歴史のおいて系統が二つに分かれた時期があります。南北朝時代です。
それをどう整理するのか、その問題の決着はなんと1926(大正15)年10月21日の皇統普令により完成されるまであやふやなものでした。政治的に決着をつけた形です。これは南朝正統論にたっていますが、現在の天皇の系統は北朝であるとするのが正しいようです。

また、古墳で有名な天皇陵が各地にありますが、これもどこがどの天皇の陵なのかが全く決めてがなかったのですが、政府の肝いりで決められることになりました。

1889(明治22)年6月3日に伊藤博文は、次のような言葉を残しています。

>万世一系の皇統を奉載する帝国にして、歴代山稜の所在の未だ明かならざるものがあるが如きは、外交上信を列国に失ふの甚だしきものなれば、速かに之を剣覈(けんかく・・・調べること)し、以て国体の精華を中外に発揮せざるべからず

何故、天皇陵である古墳が誰のものか分からなくなるのかというと、「穢れ」の思想がそこにあります。
明治天皇が亡くなった時も、喪主は誰が務めるのかが問題になりました。天皇の死は次の天皇の誕生を意味しています。その場に新しい天皇が立ち会うことは、その政権は<穢れ>を帯びる形になり、葬儀の場に立ち会うことはこれまで行われてきませんでした。

ですから、新しく天皇になったものは、それまでの天皇陵である古墳に出かけることはなかったのです。

それが、明治天皇の死においては、教育勅語との整合性もあり、大正天皇が喪主になりました。

つまり、明治期以降の「天皇制」とは古代の歴史と切り離された「天皇」であり、或いは新しく創作された「天皇」とも言えます。

それなのに、何故か保守や右翼の人たちの中には、古き日本の歴史を守れといいながら、古代の歴史と断絶をした明治期以降の「天皇制」を崇めています。それはどう考えても創作された「天皇制」であり、古代日本の歴史を継承しているとはいえません。

明治半ばにも、明治国家が祭政一致の政策の基盤として、国家神道に発展した神道を痛烈に批判するものがいた。

1891(明治24)年に帝国大学教授・久米邦武が著した「神道は祭天の古俗」である。
明治国家が祭政一致の政策の基盤とし、国家神道に発展した神道(吉田神道)は、仏教、儒教、道教などの「ごった煮」のようなもので、日本古来の神道とは似ても似つかぬものだと喝破した。
 久米によると、神道は天を祭る素朴な習俗であり、それ以外の何ものでもない。地祇(地の神。国つ神)や社稷、山川を祀るのは陰陽道の影響である。「神道に宗廟なし、大神宮を大廟と称するは甚だしき誤謬」であり、伊勢神宮を神社の総本山とすることや宮中の社殿も本来の神道のあり方とかけ離れているとみる。
 さらに神道はケガレ・不浄を忌む習俗であり、神職が葬儀をつかさどることなどもってのほかだという。

これに対し神道界などから「不敬である」と猛反発があり、久米は帝大を追われることになる。

とにかく、宮中の儀式もすべて、明治期になり作り変えられたのですが、その根拠となるものはなにもなかったのです。強いて言えば、政権側の要請であり、もう一つはその政権に唯々諾々と従う同調圧力です。

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