原罪・過去・未来

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我が家のトイレにディスプレーです。

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テレビの台には獅子舞を置きました。

この獅子舞はきっと沖縄のシーサーと同じ、悪霊から自分たちを守ってくれる、或いは退治してくれるというような神の化身、家来という位置づけなんだろうと勝手に推測しています。

ところで、新年を迎えて、ブログの名前を変更しました。

退職後の自分の生活が時間に追われる感じからもっとゆったりしたものになるであろうと、「カッパおじさんの日がな一日」と最初は変えて見たのですが、なにかあまりに揺蕩う感じが出てきすぎて、老成した雰囲気に見えたものですから、変えてみました。

でも、この「現在・過去・未来」は、渡辺真知子という歌手の歌にもあるのですが、その歌の題名が「迷い道」なんです。

う~ん、どうなんでしょう。

新年始めてのブログの題に<原罪>と入れたのですが、これはキリスト教、特にカトリック系の教義にあるものです。

その神話というのは、アダムとイヴの楽園追放物語です。

アダムとイヴ(このイヴはアダムの骨から出来たと創世記に書かれていて、その時はまだ名前がついていなかったようです)が楽園にいて、すべての食べ物を自由にとって食べて暮らしなさいと神から言われたのですが、智慧の木になっているリンゴだけは食べてはいけないと厳命されていました。しかし、ヘビにそそのかされたイヴがリンゴを食べ、アダムにも勧めてアダムも食べたので、それが神の逆鱗に触れて楽園から追放されたというのです。

それでアダムは額に汗して(つまり、労働をして)自分たちの食べるものを作らねばならなくなったというのです。

で、キリストはそのように人間に与えられた<罪>を一身に背負って十字架に張り付けになったというのです。

何故、僕が<原罪>を持ってきたのかというと、「隠れキリシタン」の人たちが250年の間保ち続けたキリスト教の神話部分には、この<原罪>がすっぽり抜け落ちて語り継がれてきたということに注目しているからです。

この指摘は、ユング派心理学の日本における第一人者である河合隼雄氏がその著書で何度も書いています。

隠れキリシタンの神話では、イヴとアダムが禁断の果実を食べた後に、神に許しを乞うと、神はそれをききとどけてしまうのである。

ここには楽園追放がありません。

つまり、キリスト教(特にカトリック系の教義)が<原罪>と位置付けている大きな部分が抜け落ちているのです。

これは当時の「隠れキリシタン」の人々が定期的に踏み絵を踏まされる状況にあったことも関係しているかも知れません。

踏み絵を踏んだ自分たちを<神>が許さなければ信仰を続けることは出来なかったからだと言う事も出来ます。

そういう意味でキリスト教の根幹ともいえる<原罪>をスル―する形をとったことは日本的変容なのか隠れキリシタンの存続問題なのか、簡単には結論を出せないように思います。

ただ、日本が和魂洋才として西洋の近代文化・文明を取り入れた明治維新が、最初は旗頭として「尊皇攘夷」を掲げていて、「攘夷」をいつの間にか「洋才」としてすり替えて行ったこととなんかリンクしているように思うのです。

日本的変容の問題は、「隠れキリシタン」のこととしてあるだけでなく、何か明治期以後の我々日本人が突き詰めなければならない重要な課題として提起されていると思います。

そんなものすごい課題を提起しながら、自分のことを書きます。

12月31日に近くに生協に買い物に行きました。曜日から言うと日曜日です。(実は月曜日でした)
普段の日曜日ならレジは行列になりますが、気抜けするほど人出はそれほどでもありません。レジも3・4人程度の行列です。

こんなものなのでしょうか。

郵便局に就職してから45年目にして、12月31日に買い物に行きましたのでいつもの賑わいが分かりませんが、無理に事前に正月準備をしなくてもいいのですね。

その後は、月見湯にお風呂に行きました。月見湯は年末年始休みません。ありがたいね。

こんな程度でぜいたくな気分になります。



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