『イサの氾濫』木村友佑を読む

『イサの氾濫』木村友佑著、未来社刊。

北海道新聞の日曜欄に書評のページが見開きであります。
そのページを参考にして購入を考える本のリストを作成していましたが、退職後は家の本棚の整理と本を購入するお金を他の回すということで図書館での本の借りだしリストに変わりました。

『イサの氾濫』はその中のリストにあったものです。
書評の内容を全く覚えていなかったので、この本が東日本大震災のことを扱ったものであることは読んでから分かりました。

>大学を卒業して社会に出た彼は、小さな出版社や印刷会社を転々とした。就職口が見つからないときは、スパーの棚を設置するアルバイトをしたこともある。好きで職場を転々としたわけでなく、仕事が過酷すぎるか人間関係につまずいてそうなったのだが、フリーターや転職を美化する時代の風潮に流されたせいもあった。略。三十代のうちはまだやり直せると思うことができた。しかし、そうこうしているうちに四十代を迎えてしまい、彼はもう、恐れていた事態に自分が陥ったことを認めざるを得なかった。おれの人生の決着はすでについてしまった、と。

そんな彼が中学時代のクラス会にでるために故郷に帰ってきた。目的はもうひとつある。イサと呼ばれた勇雄という叔父さんの半生を辿るためだ。かつて、器物損壊や暴行、刃傷沙汰で前科十班を重ねた人である。

ほかにやることがなかったせいか、何故かその叔父さんのことを小説に書いて見ようと思ったのだ。

*この小説の主人公は東北の八戸出身で、そこでが話される言葉が東北弁であることは分かるのですが、イサという乱暴者の叔父さんに昔東北地方を支配していた<蝦夷>の姿を見るというのは正直こじ付けのような気がしました。

そこがこの小説が成功しているかどうかの分かれ目になるような気がします。

確かに東北は<蝦夷>像や明治維新での敗北を受けての東北諸藩が受ける理不尽な仕打ちが、東日本大震災に通底していくようなものがあると感じるのは分かるのですが、それが描き切れているのかというとまだ舌足らずだと僕は思います。

つまり、東北の負の歴史をそのまま書いてしまうと、逆に小説としての力不足になるように思います。

小説の最後は主人公とイサは一体化されたように自他の区別もなくなり、東北の反乱者として馬に乗りと東京へ向かう一群の中にいた。

>-おらが、イサだっ!
 光が消え、一瞬すべてが闇に覆われた。やがてリズミカルに大地を蹴るひづめの音が聞こえてきて、気がつけば彼は、夜の森のなかにいたのだった。蝦夷を呼ばれた部族として、馬に乗って駆けていた。頭に布を巻いて、毛皮をはおり、弓矢を肩にかついでいた。首の周りは鳥の羽に覆われ、腰にはマキリと、柄の端がワラビの芽のようにクルリと巻かれた刀をさしていた。

>森を抜けると、夜明け前の暗がりのなかでもそこは広大な草原だと分かった。彼と仲間たちが一列になってそこへ駆けでると、ほぼ同時に、同じような戦闘態勢の騎馬が何列も縦走して、ひづめの音をとどろかせて左右の森から飛び出してきた。

>「おらがイサだおもうどやづは、悔しいやづは、みなかだれ!」(自分がイサだと思う奴、悔しいと思う奴は、皆加われ!)
 イサ/将司は、南に向かっていた。一山百文とされた福島の白河より北、その山々の竹と鉄でつくった矢を、東京に降らせるつもりだった。東北がこんなになってもあいかわらず関心の薄い政治家たちに、統治目的なのか「日本はひとつ」と吹聴する得体のしれない輩に、「同情」というトレンドに便乗しただけで痛みに寄り添おうとしないやつらに、「怒り」の矢を降らせる。美徳とされた忍耐などかなぐり捨てて、蔑まれ利用されてきた者の積もり積もった怨念を今こそぶちまけるー。

この小説が本として出版されたのは、音楽グループの上々颱風のボーカル白崎映美さんの力が大きいと書かれています。

『イサの氾濫』の感想などを書いているブログを何個か見ました。皆さんの評価は高いものでしたが、僕の感性が鈍いのかこれぐらいじゃまだまだ甘いんじゃないのと感じています。
東北の怨念ってこんなものかとさえ思います。
もっともっとの狂気が必要です。イサ叔父さん一人だけが担うのは荷が重すぎます。

もうひとつ小説が載っていました。
『埋み火』です。僕はこちらの方が小説として完成に近いんじゃないのかと思います。

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