更新!アイヌ人村を訪ねて・・・「日本奥地紀行」イザベラ・バード著、高梨健吉訳

「日本奥地紀行」イザベラ・バードの訳本は、530ページほどあります。
北海道での記録は164ページになり、そのほとんどがアイヌ人村を訪ねたものです。

ここで<アイヌ人>とか<アイヌ>と記述するのは、訳文によります。
<アイヌ>と言う語句は、アイヌ語で人や人間を意味しているらしく、<アイヌ人>と書くと意味からすれば<人間>人という風になりますが、訳文にしたがいそのままにします。

『本書は、単に日本旅行記にすぎないものであるが、(略)私が数が月にわたって本州の奥地とエゾ(北海道)を旅行した結果、またエゾの原住民を親しく知る機会を持ったから、(略)本書を公刊するに至ったのである。』

北海道と言う地名について説明します。
松浦武四郎氏が、明治の新政府から地名選定を命じられ、道名については6つの候補名の1つである「北加伊道」が「北海道」になりました。
松浦氏は、アイヌ民族が互いを「カイノー」と呼んでいたのを地名候補に入れたのです。「カイ」は「この国に生まれし者」と言う意味で、「ノー」は尊称です。・・・「開拓の群像」より

1878年(明治11年)5月20日、横浜に到着。
6月10日、粕壁(今は春日部)出発。

8月12日函館到着。「ここの気候は本土よりも爽快に感じられる」
*1879年のクリスマスの前日に函館で火災が起こった。数時間で二十の街路と、2500戸、英国領事館、いくつかの公共の建物、新しい日本人キリスト教会、教会伝道館が焼失し、1万1千人が焼け出された。

<北海道旅程表>・・・約358マイル
函館から          日本人戸数         アイヌ人戸数
ジュンサイ沼          4           
 森               105
室 蘭              57      
幌 別              18               47
白 老              11               51
苫小牧             38              
湧 別              7                 3
佐瑠太             63
平 取                               53
門 別             27
(幌別から)
旧室蘭             9                30
有 珠             3                99
礼文華             1                27
長万部            56                38
山越内            40
落 部             40
 森              105
峠の下             55
函 館         3万7千人


『誰でも、北海道に来た者は、何か奇妙な事に出会う。一回か二回は、馬と一緒に倒れたり、馬から落ちたりする。この奥地について知らされていることと言えば、蔓草が縺れ合っている森林におおわれていること、また斧を使わなければ通れないような笹藪が一面に生えていて、その上に同じく通行不能の沼沢地があり、そこを源として数百の川が流れ、魚が豊富に住んでいることだけである。(略)森林はアイヌ人の猟場で、彼らはその性質を除いてあらゆる点でまったくの野蛮人である。彼らは温和で人に危害を加えないと言われるから、私は全く安心して彼らの中に入って行ってもよいだろうと思う』

彼女イザベラ・バードは、北海道に入った時点で<アイヌ人は野蛮人だけど温和である>と書いています。野蛮人と温和がイコールで結ばれる事は普通考えにくいものですが、19世紀後半の大英帝国イギリスという文明国に住む人間にとって、自然と折り合いをつけ半永久的な繰り返しのような日常を良しとするアイヌの人々の暮らしぶりが<野蛮人>と映るのだと思います。

『幌別は日本人とアイヌ人の混住の村で、(略)このような村ではアイヌ人は日本人に遠慮して近寄らずに住むことを強いられている。彼らの家屋は日本人と似ていなくて、むしろポリネシア人の家屋に似ている。家屋が木の枠組みの上に葦を非常に上手く結んで作られているからである。小さな窓があり、非常に高い所に屋根がある。傾斜が急で、草屋根には小奇麗な縁飾りがつけてあり、棟木は葦で包まれ、装飾が施してある。』

『海岸のアイヌ人はほとんどがみな漁業に従事しているが、この季節には男たちは森林で鹿を狩る。』

ここでも馬のことを書いています。
『馬は多いが、小さくて重い荷に堪えられず、まったく蹄鉄をつけていない。蹄は非常に浅く、先端が細くなって上に曲がったり、そのたの奇妙な形をしている。(略)馬は非常に安価なので、ひどく虐待されている。今まで背中に傷のない馬を見たことがないが、それは荷物を積んだ馬を駈足で進ませるので、お粗末な荷鞍が背骨をごしごし擦るからできるのである。』

『だにが馬にたかって、ときには何百匹も一頭の馬につく。馬は痒みのために凶暴になり、とつぜん地面に身体を投げ倒したり、荷物や乗り手の上で転げまわることもある。私は二度もそのような光景を見ている。』

8月23日 平取のアイヌ小屋にて
『間もなくまた未開人の集いが始まる。このとき未開人は床の中央の囲炉裏の傍から盃を取り上げ、両手をひろげ、彼の顔の方に手を振って私に挨拶をする。それから酒に棒(ひげべら)を浸し、神に対して六回神酒を捧げる。そのとき、削りかけの房飾りをつけたまっすぐな棒を部屋の床に立てる。それから彼は自分に向かって数回盃を振り、火に向かって献酒してから酒を飲む。』

『私は非常に遠いところの海にある国からやって来た、と彼らに語った。・・・そして、また私は長い旅をして彼らに会いに来たこと、彼らに多くの質問をして、帰国したら自分の国の人たちに彼らのことを語るであろう、ということを告げた。』
それに対してアイヌの人たちは、『何でも話す前に私に向かって、彼らの風俗習慣を話したということを日本政府に告げないでくれ、と懇願するのであった。さもないと、どんな迷惑がかかるか分からない、というのである。』

日本政府は、明治32年に<北海道旧土人保護法>と言う法律を制定します。
ウィキペディアによると、上記の法律に意味することは5つにまとめられるそうです。
表向きの主旨は、貧困にあえぐアイヌを保護するために、土地・医薬品・埋葬料・授業料を与えるというものです。
1、アイヌの土地の没収・・・これは説明が必要です。法律では、農業を希望するアイヌには土地を与えますとなっています。しかし、現実的には、多くの農業適地や開墾可能地域はすでに開拓で入植した和人がその土地の権利を主張し、またアイヌからタダ同然で買い取った土地・或いは商習慣がないアイヌから騙し取った土地も和人のものとなっていました。
ですから、土地を与えますと言っても、開拓者として入植した和人が手をつけられなかった開墾困難な荒地であることは目に見えています。
しかも土地を譲渡する権利もないものでした。
2、収入源である漁業・狩猟の禁止・・・浜での漁業の権利もアイヌから没収され、政府或いは当時の北海道知事が管轄するものとなっています。
狩猟に関してですが、、アイヌは狩猟にトリカブトの毒を使用していたため、それらが自分たちへの攻撃に使われるのを恐れて禁止しました。
3、アイヌ固有の習慣・風習の禁止・・・これは、イザベラ・バードの旅行記にあるように、明治初期から始まっていたようです。
4、日本語使用の義務
5、日本風氏名への改名による戸籍への編入

この法律が平成9年まで残っていたことに驚きます。

『どの家でもお客に対しては、同じような敬意(自分の家のように過ごして欲しい)が払われる。これは未開人の美徳で、文明の大きな波が来たら、それを乗り切るだけの力はないように思われる。』

『彼らは宿泊料を少しも受け取らなかったし、与えたものに対して少しもお返しを求めなかった。そこで私は、なんとかして彼らの手工品を買って彼らの援助にしたいと思った。・・・例えば、煙草入れや煙管入れ、柄や鞘に彫刻を施した小刀。これら三つのものに対して、私は二ドル半を出した。彼らはそれらを売りたくないと言った。しかし、夕方になると彼らはやって来て、それらは一ドル一〇セントの値打ちしかないから、その値段で売りたいと言う。彼らはそれ以上のお金を受け取ろうとしなかった。儲けるのは「彼らのならわし」ではないと言う。


*まだ途中です。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック