私が死んだら 『私の死亡記事』

私が死んだら あなた~♪
石川さゆりか森昌子かとネットで検索したら、弘田三枝子の歌に「私が死んだら」がありました。

僕が記憶していた歌は、森昌子の『哀しみ本線日本海』でした。
でも、本当の歌詞は、「もしも死んだら あなた あなた泣いてくれますか」というもので、それがいつの間にか頭の中で「私が死んだら あなた」に変わっていたのです。

何故、その歌が浮かんだのかというと、先日図書館から借りてきた本の題名のせいです。

『私の死亡記事』文藝春秋刊というもので、著名人・有名人から原稿を集めてできあがっています。
正直、題名からして悪趣味の企画のように思えますが、天下の文藝春秋の力で集めたのでしょう。102名の方が寄せています。

自分が死んだらという妄想というか思いは、他人の評価も絡めた自己評価がどんなものかを聞かれているようで、気恥ずかしいもののように思えます。
また、死亡記事なんて著名人・有名人だから気になることで、自分の死亡記事を三人称で書いて下さいという条件がついています。

あいうえお順なので、最初はア行の方です。
・阿川弘之・・・1920年12月24日生。
>当人の希望により、柩は軍艦旗で覆ひ、子供たちが海軍礼式曲「命を捨てて」を奏する中を、ひそかに送り出してやりました。
と、自分の葬儀の理想図を書いていましたが、よく分かりません。

この本を借りたのは、次の阿川佐和子さんの部分を読んだからです。彼女は、阿川弘之の娘さんで、家は躾がものすごく厳しかったと話していました。結婚が遅れたのもこの父親のせいでしょう。

・阿川佐和子・・・1953年11月1日生。
>それにしても美しい人を失った。余談だが、美人長命という言葉が辞書に載るようになったのは、阿川さんがきっかけであったとは、あまり知られていない話である。享年九十六。

上記の本の刊行は、2000年です。僕が読んでいるのは2021年2月で、ここに書かれた102名のうちの何分の一の方はすでに鬼籍に入られています。
阿川佐和子さんは、僕と同じ年齢で、今から数年前に急に結婚をしました。父親の呪縛から解放されたのではないでしょうか。テレビで見る彼女の話は、女学生の友だち同士の会話の延長という感じです。意識的にそうしているのかは分かりませんが、それが彼女をチャーミングに見せています。

・渡邉恒雄・・・1926年5月30日生。
読売新聞社社長で、巨人軍のオーナーです。
>2021年4月30日、自宅庭のハシゴより転落し、外傷性脳内出血のため死去。九十四歳。葬儀、告別式は故人の遺志より無宗教の音楽葬で行われる予定。曲目は、生前本人が選曲したものを、読売日本交響楽団により演奏される。

最後が渡邉恒雄です。いつ亡くなられたのかを調べる気もないのですが、確か亡くなっているはずです。自分の書いた葬儀模様ですが、死ぬ段階でも読売新聞のドンであることは変わらないでしょうから、自分の葬儀模様などなんなく実行できるのではないでしょうか。
死に方を元新聞記者よろしく面白く書いていますが、ちっとも面白くありません。人間偉くなっちゃおしまいよという事を身を挺して示しているんじゃないでしょうか。

だいたい、自分の「死亡記事」を書く場合は、自分の死に方をちょっと情けなく書いたり、どこか異国の地で死んで見せたりと、まあ、希望なのか夢なのか、あまり興味が持てません。ただ、自分の功績については、一言書いて置きたい、自分の評価はこうあって欲しいと書く人も意外と多いなと思います。

僕のような狭い範囲の読書しかしない者には、どんなものを書いていたとかを知りようもないので、なんか死んだ後の評価を自分で決めるというのは切なく感じます。

・西部 邁・・・1939年3月15日生。
>私儀、今から丁度一年前に死去しました。死因は薬物による自殺であります。銃器を使用するのが念願だったのですが、当てにしていた二人の人間とも、一人は投身自殺、もう一人は胃癌で亡くなり、やむなく薬物にしました。

この方は、札幌の生まれだったと記憶しています。そして、この「死亡記事」にあるように自殺をしました。湖か川への投身自殺です。ただ、身体が少し不自由になっていたので、二人の介助者がこの自殺に関わったことが報道されていました。

・小沢昭一・・・1929年4月6日生。
>4月6日午後十時、老衰にて死去。九十九歳。
 元俳優であったことを、もう知る人も少ない。略 辞世句は、「志ん生に会えると春の黄泉の道」
「人間は生まれた日に死ぬべきもの」という持論どおりの死去であった。

人間どのように死ねばいいのかなんて誰にも分かりませんし、正解なんてありません。周囲に迷惑を掛けずにと言っても、死体は処理されなければなりません。

・鶴見俊輔・・・1922年6月25日生。
>かるたをいとぐちとして思想の断片化を計り、『かるた』、『限界芸術論』、『太夫才蔵伝』、『アメノウズメ伝』を書いた。思想の科学研究会員、現代風俗研究会員、市民運動「声なき声」、「べ平連」、脱走兵援助、自衛隊ホットラインにくわわる。
略 
学歴は東京高等師範付属尋常小学校卒業、ハーヴァード大学卒業。理学士。
1949年以後、主に京都い居住。うつ病もち。酒はまったくたしなまず。

僕の好きな著作家だ。アメリカの大学で当時の最先端哲学であったプラグマティズムに接したことがその後の著作に多くの影響を与えたと思います。とにかく守備範囲が広いというのか、漫画・アニメも含めた領域までカバーしていたのはすごい。それ以上に鶴見俊輔の哲学の本物さは、彼の行動力に現れています。
「声なき声」などは、最終局面においては数人の参加者しか集まらなくなりましたが、最後まで参加しづけています。また、「朝鮮人」という雑誌は、他人から引き継いだものですが、長崎大村にある収容所問題です。違法に滞在する外国人を国外退去させるための施設という名目ですが、じつは朝鮮人・韓国人専用の施設としてあったという事実に鶴見は驚き、その収容所廃止まで「朝鮮人」という雑誌を発行します。
しかも印刷された「朝鮮人」という雑誌をリュックに詰め、置いてもらえる書店を巡っています。それをただ一人で何年も続けています。
彼の著作の柔軟さ・したたかさがこんな所にも見えるのではないでしょうか。

最後に田辺聖子氏の「死亡記事」を紹介します。

・田辺聖子・・・1928年3月27日生。

墓 誌
 田辺聖子 昭和の世の女流作家。自称して「文壇の白雪姫」と。
 関西の地に躑躅(てきちょく)して平談俗語の漫筆を弄し、若干篇を刊刻して少許の知音を得、自足す。平生、世に処る態度、苦痛不感症の観あり。清談長嘯(ちょうしょう)、金巵(きんし)満杯を愛し、笑謔を好む。殆ど酔生夢死。人、呼んで楽天少女(ふうらいぼう)と謂う。

まあ、自分の「死亡記事」はこのくらいがいいような気がします。
  

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