推しメンならぬ推し天皇?

算命学という占いで重要なのはその人自身の年月日の干支です。
年が親の影響で、月が社会・仕事の運性、日がその人自身の運勢となっています。
ですから、自分の干支を間違えると運勢の占いが狂うので、「干支表」なるものが重要アイテムとなります。

僕自身もその本の後ろに掲載されている「干支表」を手掛かりに出して見ましたが、数学者には簡単なようです。

年の十干十二支を求める計算式
 s≡y+7(mod 10)、1≦s≦10
1982年の十干は、1982に7を足して、それを10で割ると余りが9となる。

十干の順序で見ると、
1甲 2乙 3丙 4丁 5戊 6己 7康 8辛 9壬 10癸

つまり、1982年の十干は、9番目の壬となります。

十二支は普通に分かるでしょうが、計算式にすると
 t≡y+9(mod 12)、1≦t≦12
1982に9を足して、12で割った余りは11だから、戌になります。
*子年から数えれば11番目が戌になることが分かります。

その要領で、月や日の十干十二支の求め方ができるようですが、ガウスの記号が出て来るので本を読んで下さい。

ところで、この十干十二支の組合せを暦として取り入れたのは、漢の武帝の時代、紀元前104年の「太初暦」が最初だと云われています。
日本では、西暦604年に、はじめて暦日が採用されて「甲子の年」と定められた。日本で最初に暦が用いられたのは推古天皇のときで、それ以前の年月日は推定するほかない。その意味で、古(いにしえ)を推しはかる時代の天皇として推古天皇という諡(おくりな)がつけられたのかも知れません。

中国から暦の知識が伝わったときに同時に吉凶を占う考えも輸入されました。「讖緯(しんい)説」というものです。
六十干支で言えば、最初の「甲子」の年も物事の始まりとして、天命があると考え年号を改めたりします。それ以外にも、「辛酉」があります。
『日本書紀』には、「辛酉の年春正月庚辰朔、天皇橿原の宮に帝位に就く」とあり、神武天皇即位を記述していますが、これは讖緯説にある、辛酉革命が60年ごとに起こり、それを一元として21元、1260年ごとには大革命がおこるという予言を逆算して神武天皇即位の年を定めたものです。

ところで、推古天皇は残念ながら推しメンではなく女帝です。しかし、かなりの美女だったのではと思われます。
といいますのも、推古天皇は炊屋姫(かしきやひめ)といい、敏達天皇の皇后でした。
敏達天皇が死去されたのが、585年8月15日。中国起源の「しのびごと」儀礼が登場するのは、この敏達天皇の殯宮儀礼においてです。
*「しのびごと」という儀式は、亡き天皇へ哀悼の意を捧げるのはもちろんのこと、有力豪族や蝦夷などの辺境民族の服属儀礼でもありました。また、ここで一番重要なことは次期天皇の選定作業であり、モガリという時期が一番政局が不安定になる時期でもあったのです。

この場で有力豪族の両巨頭、蘇我馬子と物部守屋が激しくののしり合うトラブルが起きます。
馬子が大刀を帯びて「しのびごと」を奉った姿を見て、守屋が「矢で射られたスズメのようだ」と小柄だった馬子をあざ笑い。それに対して馬子は、守屋が手足を震わせる所作で「しのびごと」を奏上するのを、「鈴を付けたらおもしろい」と笑うという事態になりました。
史実では、仏教受容を巡っての争いとなっていますが、単純な権力争いと考えても的は外れていないと思います。

そして、この敏達天皇の殯宮(モガリが五年八カ月も続く)でとんでもないことが起きます。
次期天皇を狙っていた穴穂部皇子が殯宮に押し入り、そこにいた敏達の皇后。炊屋姫(後の推古天皇)を強姦しようとしたのです。何故このようなことをしたのかと言うと、この殯宮に入り喪に服することは次期天皇であることを主張する行為でもあったからです。
この時の次期天皇は、欽明天皇の皇子、橘豊日皇子が即位します。用明天皇です。しかし、即位後2年足らずで天然痘で亡くなります。
次が崇峻となりますが、臣下の蘇我氏に暗殺され、推古天皇が即位します。

推古天皇は甥の厩戸皇子を摂政に立て、冠位十二階、十七条憲法の制定、遣隋使、国史の編纂など、様々な改革が行われました。
これは有力豪族の争いなどを経験している中で、国の政を私的運用にしてはならないという思いがあったからなのかと少し穿った見方もしましたが、どうでしょうか。

"推しメンならぬ推し天皇?"へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント: