天皇の「転向」

明治維新によって、日本が「天皇制」を導入したとき、時の為政者はどのような構想をもっていたのだろうか。

明治天皇が政治の舞台に担ぎ出されたのが16歳か17歳の頃で、その時の政府の実権を持っている者たちが若輩の若者である明治天皇の権限を利用してあまりに勝手な言動をしていることに旧幕府側の重鎮が糾弾をしています。

指導層にいると自覚している者たちは、どのようなことを決めて国民に向けて指示・指導をしても、自分たちは決める側の人間だからそれに特別従う必要はないというダブルスタンダードの姿勢はいつの時代にもあります。
それは明治維新によって、形の上では立憲君主制という政治体制を目指しながら、その内実はあやふやなままで、どこまでが君主である天皇がご判断をするのか明確ではありません。
どちらかと言うと、議会で決めたことに承認を与えると言う仕組みとしての権限の中に君主=天皇の政治を思い描いたのかも知れません。
とすれば、君主がなにかを判断し、実行を促すという権力と権限を持った君主ではなく、「よきにはからえ」という処理方法の形で権威を保つまるで象徴天皇制とでも呼べる形がいつしかできあがったのでしょう。

だから、軍服を着た天皇のイメージは大元帥としての天皇の統帥権を示すものですが、基本は象徴の意味しかなかったのでしょう。

それでも、天皇自身が自分のご判断を部下である侍従長や時の首相に伝えたことは記録として残っています。
そこの中に、天皇の「転向」問題があります。

ここで「転向」と書くと、あれっ?「転向」というのは「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と規定して分析をしている研究ではなかったのではと問われるでしょう。
何故なら、天皇は日本での最高の権力者自身なのに、権力者が「権力によって強制される」なんておかしいと指摘されるのも分かります。

ここで問題になる「権力」とは軍部のことです。

ある時期から、政府の組閣には軍人出身の大臣を入れることが決まります。帝国憲法にあるのかどうかは調べていないので分かりません。そのために軍部は戦費を減らす案などが出されると大臣を引き上げることで内閣の総辞職をさせる権限を手に入れることができました。
そのために戦争拡大をお金の面から阻止する方途がなくなっていったのです。

天皇が自分の身の安全に不安を感じたのは、二・二六事件が大きいと言えます。

皇居内に陸軍の反乱兵士が乱入し、同時にともに一緒の時代を歩んでいた政治家や資本家が殺されることで、もしかしたら自分も捕らえられ、軍人のいう事に従う言辞を吐かなければ殺されるか幽閉されて、別な皇族を立てることが現実問題として天皇の頭の中に描かれたのです。

この時は、昭和天皇自身が侍従長や陸軍の大臣に反乱軍を鎮圧せよと命令を出し、もし実行しないのなら自分が指揮をして近衛兵を出動させて鎮圧にあたると強い意思をしめしたので、収束しました。

そのことのトラウマがそれ以後の天皇の発言に影響していると見るのが普通の見方であると思います。

日米開戦においても、最初は戦争回避のために動くように部下に伝えています。
イギリスに留学して「自由主義」の考えや雰囲気を吸った昭和天皇ですから、米英との開戦はなんとしても回避したかったのですが、「天皇制」とは言えなんの権限もないと言えます。

議会の決めたことに承認を与える仕組みでの君主=天皇ですから、自分の考えで政策を動かすことにはますます慎重になっていたのでしょう。
もし、この段階で、それでも米英との開戦を私は望まないと言い張ればどうなっていたのか、そこはよく分かりません。

でも、終戦を巡るときも天皇の御意思だと知りながらもそれに従わないことに理屈付けしてなんとか本土決戦を促そうとした将校もいたのですから、天皇のご判断がどこまで尊重されていたのかは疑問です。

つまり、自分たちの意見や行動に承認を与える天皇は認めるが、自分たちの意見や行動に批判的な天皇の御判断は認めないとする論理は「天皇機関説」そのものなんだろうと思います。

美濃部寅吉の「天皇機関説」は天皇を侮辱しているとか猛攻撃をした軍人そのものの考え方が「天皇機関説」だったというオチです。

現人神ではなかったのですから、昭和天皇が感じていた恐怖は代々の天皇が味わっていたものなのだろうと推察できます。そういう意味では、昭和天皇はその恐怖によって天皇の歴史に繋がったと言えます。

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