教える方教えられる方

それほどの回数ではないのだが養護学校(生徒の年齢が随分大人の人ばかりなので、そう呼ぶのかどうか)の生徒と先生が一緒になって出かけている場所に遭遇したことがある。

一人の人がもう一人の人の手をもって歩いているのだが、生徒同士なのか先生と生徒なのか判別がつかない。

もし、ここに新米先生がいたら、すぐに見分けがつくだろう。
彼は少なくとも教師としての使命感を密かに胸にしまい込んでいて傍目にもそれが伝わってくるだろう。
だから、新米教師である彼と生徒はなんなく判別することができるだろう。

だが、生徒も先生も中年以上のおっさん同士、あるいはおばさんになっていると、誰が生徒か先生か見分けがつかず、何故かそのことに感動さえ覚えてしまう。

人を教えること、人から教わること、その違いはなんだろうか。

何かを知っている知識を知らないものに伝えることは容易いことだ。
もちろん、相手がその内容をどこまで理解できるかは別だが、「知」はいくらでも開示することができる。

だが、養護学校での生徒と先生の間にある、教えること、教わることの中身は上手く説明できない代物なんじゃないのかと勝手に想像してしまう。
それ故か、先生の顔も生徒の顔も判別不能になるのだ。

「教育」だったか「教える」という言葉だったか、その語源は奴隷が主人の子どもたちを見守ることからきていると読んだことがある。つまり、何かを教えるためではなく、寄り添い見守る姿勢そのものが「教育」だか「教える」の語源だということだ。

ルソーの「エミール」などから、幼児教育に関する文章などを引き合いにだせば、格好がつくのだろうが、それは受けとる側が勝手に付け足してということで、終了。

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