一文不知の愚どんの身となりて

宗教学者である<ひろさちよ>の活動が一時期盛んに新聞でも取り上げられて、僕も数冊の本を読んだが、ある時期スパッとやめた。

それは、法然の「一文不知の愚どんの身となりて」という言葉の前提というか条件として、「たとい一代の法(のり)を能々(よくよく)学すとも」というのがあるということの説明として自分たち親子の例を出した。

<ひろさちよ>の親子はどちらも東大を出ているらしく、「もう勉強なんかしなくていいんだ」と言えるのは、自分たち親子のように東大に行くなどの学識が揃ってはじめていえる言葉なのだ、真面目に勉強をしていない者が「勉強なんかしなくていいんだ」と言っても説得力がないんだと本に臆面もなく書いているのを読んで<ひろさちよ>とおさらばした。

確かに、法然の一向念仏の主張の中には、そのような選民意識が根底にある弱さがあることは事実で、それをいけしゃあしゃあと言われちゃ、頭に来るよりも笑ってしまった。

これは、政治家の内心とも通じているような部分だ。
選挙民から選挙でえらばれるから選挙民である国民皆に頭を下げるが、内実は選挙民である国民はまだ政治のこと国の事をちゃんと分かっていないのだという考えが政治家の中に潜んでいる。

法然が一向念仏をもって衆生の思いに応えた宗教上の転換点は大いに評価すべきだろうが、その底にある部分は劣った衆生とそれを指導する知識人である僧の構図であることは間違いない。

「一文不知の愚どんの身」としての自分だからと言って純粋無垢な心をもっているなどとは言えないし、なにかそういう衆生の姿を持っての一向念仏ならこちらから願い下げだよという気持ちもある。

早い話、純粋無垢な大衆なんてどこにもいないし、そんな心持ちでいるとしたら、それは狂気そのままで生きろと言うに等しい。

中世の説話集には、狂気のまま生きた僧が何人も登場するが、潔いというより、その心持ちがあまりに哀しすぎる。

当時の出家事情を清少納言はこう記している。
「思はむ子を法師になしらむこそ心くるしけれ。ただ木の端などのやうに思ひたるこそいとほしけれ」
そして、僧侶になったものは「女房にあなづられ」る存在でもあった。
王権と貴族の繁栄のかたわらに寄りそって成立させられている僧侶の世界は、またそれらのお飾りとしての荘厳も要求されていた。しかし、その存在は世間から見れば「木の端」ほどの重さしかないものでもあった。

仏教が国家鎮護と天皇及びそれに連なる貴族たち自身を守る道具としての役割を持たされていた時代でも、そこからはみ出してゆく多くの僧侶がいたことが知られる。

大宝元年(701)発令の僧尼令二十七条に、その頃すでに自分勝手に出家してしまうものや、僧侶を襲名し跡目をつぐもの、巫術によって医療を行うもの、乞食するもの、寺を出て衆をあつめ演説教化しようとするもの、酒肉を平気で食するもの、百姓と交わり政治を批判したりするものなどを禁止している。

「木の端」のような軽さとして見られながら仏教の真理を荘厳のように演じなければならなかったものたちの中には、狂気とも奇行とも思える行為をもって一生を終えた僧侶がいた。

例えば、叡山東塔の僧、平等供奉といわれた長増が、多くの弟子を置き去りにしたまま、厠の中から蒸発してしまった事件。
あるいは、増賀上人は、叡山根本中堂に千日籠って想を練り、ついに<身を捨つ>というヒントを得、たちまち衣類のすべてを脱ぎ捨て貧者に与えた。
花林院の永玄僧正も六十をすぎてから乞食をして糊口をしのいだが、ただ人ではないと露見しそうになった時、女犯の罪をおかしてなお執愛はなれがたく生きる汚穢の僧であると告白し、ついに本体をしられることなく、心安らかな自由の天地へと行方を絶った。
また山階寺の真範僧正は、本寺を離れて放浪し、唖(おし)のまねをして鈴をふりつつ逃げあるいた。

これらの記述は『世捨て奇譚 発心往生論』馬場あき子著、角川選書からの引用です。

著者は、世捨て人のように生きる僧侶の奇行を以下のように書いています。

>奇行は決して狂気ではない。それはアピールの方法であり、兪であり、風刺である。そのうえ奇行の面目は、見られるためのものであり、見せるためのものでなければならない。奇行とは捨て身にして果敢な現実対処の姿勢であり、批判である。そしてこの常識の円環から突出し、常軌を逸して滑稽である奇行の目的は、その反日常的行為の中に敢えて日常のひずみをあらわすという、大まじめの警世の声であるところに価値がある。奇行者の奇行のかずかずに、生き生きとした熱い生命感があふれているのに目を止めるならば、同じくそれが何に向けられた自己主張であるかをも見なくてはならないだろう。

>世間に対する徹底的な侮蔑、それが奇行を生む温床であったことはまちがいない。もちろんここで世間という認識は、人間を忘れ、心を忘れた権威や、空虚なしきたりであることはいうまでもない。しかし、それからの解放をねがうゆえに出家した志は、長い年代にわたって、何度となく個個の内面的葛藤のはてに累積し確固としてゆくものであって、出家者が必ずしも権威や栄誉への憧れを捨てたものであるとはかぎらない。むしろ、その反対の場合の方が、実はずっと多かったにちがいないのであり、そうした悲憤すべき情況の中で、はじめて奇行の説話は語られ、賛歌される価値が生まれているのである。

これら中世の時代の僧侶の出家遁世という行動が奇行という形でしか表すことができなかったことが、巡り巡って現代においてはユーチューバーであるフアちゃんたちの姿とだぶって見えるのだ。

彼ら彼女らは何かを示したいのではなく、何も示さないことを目的化しているように映像に映り映像を作成する。
まさに「一文不知の愚どんの身となりて」を実践しているかのようだ。

それを見ている衆生の我々にその本心が見透かされることのないよう、いろいろな手立てをする。それはまさに修業のようだ。

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