わたしは死人ではない。おろされるのが早すぎただけだ。だから、また起きあがってきた。

「死んだ男」という小説の中の主人公のセリフです。

>イェルサレムの近くに住むひとりの農夫が闘鶏を手にいれた。
そのように始まる「死んだ男」という題の小説が誰を主人公としているのかは、すぐにも分かるだろう。

「死んだ男」とあるようにイエス・キリストの復活を描いたものだ。

闘鶏が鳴く声、ひときわ高くつんざくような調べで鬨をつくった。その声で、農夫が目をさましたその時、

>ちょうどその時刻、その同じ朝のちょうどその夜明けまえ、ひとりの男が長い眠りから目ざめかけていた、かれを縛りつけていた眠りのきずなから離れようとしていた。

宗教としてのキリスト教からすれば、この場面はイエス・キリストの復活の場面というのだろうが、小説の中でのイエスは、「死んだ男」から生き返っているのは、十字架から「おろされるのが早すぎただけだ」と認識しているのです。 

だから、そのような事態を「逆もどりだ!事はすべて終わったのに、なぜまたもどらねばならぬのか!」と叫ばざるを得なかったのです。

>行くあてもない男は、丘の上に立つイェルサレムの町とに背をむけて、それとは反対の方向へゆっくり道をたどっていった。
彼がふらふらと歩む先に、信者の女性が彼を見つけ、駆け寄り足もとに膝まずいて接吻をしようとした。

すると、彼は、「わたしに触れるな、マドレイン」「まだそのときではない!」

信者であるマドレインは「師よ!」と叫び、わたしどものもとへ帰ってきていただけますか?と問うのだが、

彼自身も迷っている姿なのです。
「終わったものは終わったのだ。わたしにとって最後の時はもう過ぎてしまった。あのような生活はもう終わったのだ」
小説の中の主人公は、自分が行ってきたのは、受け取る以上のものを人に与えるという行き過ぎた救済だと語っています。それはあやまちを犯したことにはならないのだろうかと言うのです。

正直、僕には主人公の迷いがよく分かりません。復活をするという予言の話はどこかで聞いたことがありますが、それがキリスト教においてどのような意味があるのか、見当もつきません。

そして、彼はレバノンにたどり着く。そこの海岸に神殿を建て、アイシスの女神を守り続けている女性と出合い、ひとつに結ばれて子を宿すことになります。
しかし、追手の気配を感じている主人公は、そこも離れ旅立つことをします。

「さあ、小舟のおもむくまにまにさすらおう、あすのことはあすにまかせよう」

「死んだ男」の作者は、D・H・ロレンス。1885年、イギリス生まれ。「チャタレイ夫人の恋人」が出されたのが1930年で、彼が死んだ年です。
D・H・ロレンスと聞くと、「チャタレイ夫人の恋人」が思いつきます。日本では、伊藤整の訳で出された本がわいせつ文書として最高裁まで争われました。どのような部分がわいせつなのかは読んでないので判断できませんが、今回の「死んだ男」でもそれに近いような箇所があるのかと注意して読みましたが、女性と結ばれる場面でも露骨な表現はまったくありませんでした。

「死んだ男」の訳は、福田恆存氏です。

昔のビジネスホテルの各部屋には、聖書が置かれていました。おそらくキリスト教の団体が布教のためにホテルに置いてもらっていたのでしょうが、結構な時間つぶしにはなりました。

その中で、印象に残っているのが、ブドウ園での労働と報酬の部分です。
朝早くから働いた人たちに、何シリングというお金を最後に渡します。
また、昼から働いた人にも何シリング、そして、労働が終わる時間寸前から働いた者にも、同じお金を渡すというのです。

これは同一労働、・同一賃金かと一瞬は思いますが、労働時間は違います。
この場合のブドウ園の労働は、何かの象徴的なものだろうと推測できます。神との契約というものでしょうか。
その対価は、いつから信者になっても同じものを貰えると表したかったのでしょう。

つまり、長年やっているとポイントが多くたまってきますという年功序列みたいな仏教の功徳ではなく、すべて神の前では平等だという宣言なのでしょう。
やっぱり、ブドウ園の労働と報酬の部分は驚きでした。

イエス・キリストの復活劇は、神になるための一種の儀式なんだろうと思いますが、この小説のように復活したのではなく、十字架からおろされるのが少し早かったのだとしたら、彼は神になることなく、別な人生をやり直したと考えていいかも知れません。

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