シャクシャインの像

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この像は、今はもうありません。

この像が劣化して倒壊の危険があるということで、新ひだか町が撤去しました。

事前に、その像に替わる新しいシャクシャインの像が発注されていて、既定のスケジュールとしてあったようです。

シャクシャインの戦いは北海道アイヌとしては最大規模の蜂起であったことが分かります。
もともとアイヌの居住地は、北海道各地に分散していて、社会集団としての機能は面として大きな広がりを持ってはいなかったように見えます。

ただ、シャクシャインの戦いでは、日頃対立していたアイヌの部族集団が、対和人、対松前藩の形で戦いの輪が急激に広がっていったのです。
しかし、アイヌの武器が毒矢が主であったのに対し、松前藩は戦闘に鉄砲を使用するようになり、戦闘が長引けば不利になることが明白でした。また、アイヌの部族の中には、戦闘に参加しないだけでなく、松前藩の側につく者たちも出てきて、和睦提案を受け入れざるを得ない状況になっていくのです。
そして、シャクシャインは、その和睦の席上で卑怯にも殺害されたのです。

シャクシャインの像のことでもう一つ思い出すことがあります。
1972年の出来事です。
写真の像が有志によって建立されたとき、その像の台座には当時の北海道知事「町村金吾」の名が刻まれていたようです。
台座に何故、「町村金吾」の名が刻まれていたのかはよく分かりませんが、シャクシャインの名誉を、アイヌの名誉を傷つけていると感じた者たちが、台座に彫られていた「町村金吾」という名を削った行動が報道されました。
その一人が結城庄司さんです。アイヌ解放運動の推進者です。
結城さんの行為は、最終的には起訴猶予となりましたが、シャクシャインの像のことを考えると思い出します。

それが今度は、その像を投げすて、別な像ととっかえてしまったのです。

今回の像のとっかえには、アイヌの団体も関わっています。
アイヌが和人と闘わざるを得なかった自分たちの歴史を、この人たちはどう考えているのでしょうか。

ところで、アイヌに関する本を読んでいて気が付くのですが、自分たちをアイヌと呼ぶようになったのはいつことからでしょうか。それには理由があったのでしょうか。

「アイヌ」は、古い記述では「アイノ」とも記されていますが、用語としては<人><男>の意味があるようです。別な本では、<人間>という意味いうの言葉と書かれています。
16世紀末の宣教師の記述では、「アイヌ=モシㇼ」という言葉が使われています。

金田一京助氏の指摘では、当時の和人たちが自分たちをエミシ(蝦夷)という差別的な表現で呼んでいることを嫌って、使っていた言葉が縮まって「アイヌ」になったのだと書いています。

戦後の一時期、アイヌ団体そのものが、自分たちの団体名を「ウタリ」(複数)という言葉で表現したことがあります。それは「アイヌ」という言葉の使用が差別を助長するのではという危惧によるもので、実際の運営では「アイヌ」「アイヌ民族」を使っていたので、それが自称であることは間違いありません。

ただ、アイヌの居住地は面としての広がりというより、点として北海道各地にあり(東北地方にもありました)、社会機能としては点の居住地で充分満たされていたようで、それが民族としての同一性にどこまで反映されるのか、正直なところよく分かりません。

アイヌの居住地が、東北・北海道以北であったという前提にたてば、そこで暮らす方法は狩猟・漁撈を基本とした生活で、少しばかりの畑作が可能であったかもしれませんが、自分たちの住処=栽培面積という思考にはならなかった訳で、河川・海・山という獲物が出没する場所付近が
住処であったことは分かります。
とすると、獲物が少なくなれば住処を移動をするということも思考の中にあったのだろうと考えます。

交易もそれなりにあったことが知られていますが、その交易にしても、何かを稼ぐという思考がない故に、貨幣は身を飾るものとして使用しただけで、貨幣文化というものが浸透しなかった理由もそれで理解できます。




















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