二人の天皇

『天皇の葬儀ー日本人の死生観』井上亮著、新潮社刊。

日本の古墳時代は、四・五世紀頃ではというのが通説でしたが、出土した副葬品などの年代測定では、三世紀頃からあったというのが現代の判断だそうです。ですから、卑弥呼の時代ではと思われる古墳もあるようです。

その時期から天皇が亡くなると古墳が作られるというのが一般的な流れになっていたようですが、古墳の築条は莫大な労力が必要です。築城だけでなく、副葬品の製造など、人民の経済活動を止める形になります。

また、天皇の死は政権運営の危機を招きかねないので、自分のお墓作りをどうしたらよいのか難しい判断にもなりました。
そういう中で、お墓つくりを簡略化することを実行した天皇がいました。

淳和上皇は840年、五十五歳で死去します。火葬を選びました。

「私は元より飾り立てることを好まず、人、物に迷惑をかけたり、無駄をしたくない。葬儀に要する準備はすべて簡素とし、朝廷から賜る葬具は固く辞退せよ。」
「私は、人は死ぬと霊は天に戻り、空虚となった墳墓には鬼が住みつき、遂には祟りをなし、長く累(わざわい)を残すことになる、と聞いている。死後は骨を砕いて粉にし、山中に散布すべきである」

これが自然葬のはじめだとするグループがいますが、山中といっっても山稜(山そのものが天皇のお墓)ではないかと思います。それでも、遺骨をお墓に納めるのではなく、散布するというのは初めてです。

もう一人は、嵯峨上皇です。842年、五十七歳で死去とあります。
三十数人の后妃に五十人の子供を産ませた艶福家であり、空海、橘逸勢とともに三筆といわれた能筆であったことも有名だ。「凌雲集」など勅撰漢詩集の編纂など宮廷文学サロンをつくり上げ、人生を謳歌した天皇であった。

「およそ人の愛するものは生であり、嫌うのは死であるが、いかに愛しても生を延ばすことはできず、嫌っても死を免れることはできない。人の死とは、精神は亡び肉体は消滅して魂の去ることであり、身体の活動の根元力である気は天に属し、肉体は地へ帰ることになるのである。
立派な墓を作っても、死体はすぐに朽ちてしまうものであり、葬とは隠すことであり、人に見られないようにすることである。」

それ故、お墓は「適当な深さの穴を掘り、棺が埋まればよい。柩を下したら、高く土盛はせず、樹木も植えず、平らにすればよく、草は生えるままとし、長く祭礼を行ってはならない」

二人とも、本当は天皇ではなく、上皇という立場ですが、この時代はすぐに天皇を譲位して上皇になる仕組みだったようです。基本的に、天皇は在位中に死なないということが暗黙事項としてありました。そのための方法が、譲位して上皇になるという仕組みでした。

この時代は、仏教が国家鎮護としての役割を担っていましたので、天皇=国である時代にここまでドライに死を捉えていることに驚きます。普通なら、極楽浄土に導かれることに考えが及び寺院建立などがあるのですが、この二人の天皇は、そこまでの権威がなかった自覚がそうさせたのでしょうか。

よく考えれば、この時代とは平安時代です。
平安時代は、極度の都市集中が起きた時代です。
周囲での飢饉や旱魃など、作物の不作が続くと、都市への食物の供給がすぐにストップしたそうです。そのために、都市に住む下層階級は食糧難での飢餓や疫病によって死ぬことが日常茶飯事だったと書かれています。
芥川竜之介の「羅生門」の世界です。

鴨川が死体処理の場所だったらしく、鳥や野犬が死体の一部をくわえて庭先に持っていることなどがあり、そのことによる穢れ忌避の行為が役務を停止させたとあります。

天皇といえども、そういう日常だったからこそ、上記のような死生観が養われたのかも知れません。

 

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