「の」と「が」と「は」

『日本語の文法を考える』大野晋著、岩波新書。
*「」の部分や、>で始まる文章は、上の本からの引用抜粋です。

日本語の文の特徴して、主語がないと言われます。
これは何故かというと、「日本語では、相手の知らないことを伝えれば文として不足がない」からで、「相手に分かっている部分は、きわめてしばしば省略する」
「つまり省略しても理解が可能な人間関係の近さにおいて日本語は使われたきた」ということです。

「日本社会の特徴として」「人の移動の少ない、狭い人間関係の中で人々が生活してきたので、人は事実をすみずみまで明確に表現するよりも、自分の相手となる人の気持ちに遠慮し気がねする。相手の気持ちをそこねまいとすることのほうを大事にする。いかに事実をはっきりつたえるかというよりも、いかににして相手にいやに思われずにすませるかに細かい神経を使うという面がある」

そうは言っても、日本語の文章でも主語がでてきます。
その際に、主語を受ける助詞として思いつくのは、「が」と「は」です。「の」という場合もありますが、感覚としては文語的な文章の印象を受けます。

現代日本語の文章でも、主語を受ける助詞として多く出て来るのが「が」と「は」です。
「さて、私は先に文表現には相手がまだ知らないことを伝えるのが主眼だと述べた。しかし、文は常に未知の内容だけで成り立つものではなくて、相手がすでに知っているはずのことと、知らないはずのこととの組合せで文をつくる。つまり文表現には、既知と未知という二つの要素がある。だから文はその二つの要素の組合せによって成り立つ」

ここで大野氏は4つの組合せを提示します。
①既知と未知・・・例文として、「私は大野です」「私は(ダレカトウト)大野です」
②既知と既知・・・広いことは広い
>以上、ハの上におかれるものは既知のもの、既知と扱うものである。それは題目であり問いを形成して、ハのところで一度切断する。ハの下には何か知られていない情報が加えられ、それがハの上の題目についての説明となって、判断の文が成り立つ。

③未知と既知・・・「私が大野です」大野という人物はすでに登場して既知である。ところが、それが実際にどの人物なのか、その帰属する先が未知である。
④未知と未知・・・「花が咲いている」。これを「花は咲いている」といえば、「花は(ドウシテイルカトイエバ)咲いている」と題目に説明を加える文になります。しかし、「花が咲いている」は、全体が一瞬にして認識されたのであり、それを分析的に表現している。
>ガの根本的な特性は、ガの上にくる言葉とガが一体となって、下にくる表現に対する条件づけをすることにある。条件づけをするとは、下にくる体言や動詞や文表現などに対して、ガを含む上の部分が新しい情報を加えるものだということである。

現代日本語の文章における主語を受ける助詞の場合は、「は」や「が」は思いつきますが、「の」を使う場合もあります。

>古代においてガは、人間を承けることが圧倒的に多かった。しかもその人間は、自分自身または結婚相手(夫・妻・恋人)、親子であった。それに対してノは、人間だけでなくむしろ人間以外のもの、地名・場所・時間・物などを承ける例が非常に多かった。もちろん、人間も承けたけれでも、その人間は第三者的な、疎遠な人間や、尊敬の対象となる人間であった。

このガとノの使い分けを、大野氏は日本人が持つウチとソトという意識に求めます。
つまり「親近の対象にはガを、畏怖の対象にはノを使った」。

>ソトとは恐怖の対象のいる所であるから、ソトのものに対してこれを遠ざけようとする。それと付き合うまいとする。そして尊敬の対象もソトのものとして取り扱っていた。すでに述べたように日本人の尊敬は、親しみや理解の成熟によって尊敬へとそれが成長してゆくのではなく、日本人は恐怖・畏怖の対象に対して、カシコマリや隔てを置く態度をとることによって尊敬を示した。相手の中へ浸透していこうとせず、相手から遠ざかり、相手に手をふれまいとする。

>「万葉集」全体を見わたすときに、東歌や防人の歌にガを使った歌が目立って多い。
「私の考えでは、東国は畿内の人々の意識ではソトの国であり、そこの人々はトヒトであった。この東国の人は当時、ヤマト地方の人たちから低く見られていた。また、東国人は物事を表現するにあたって都の人に対しては、何かにつけて卑下してガを使うことが多かったのだろう。都の人がノで扱うような、「鈴」や「紐」についてもガを使った例は先に見た。このことが、あとで東国でガという助詞のさらに多く使われるようになってゆく一つの下地になっただろう。

本来なら、ガやノの使い方は分けられていたのですが、「ガは年月の進みとともに使い方が広くなった」ことが分かります。

>これは、固定的に区別されていたウチとソトの意識が、鎌倉時代になると次第に混乱してきたことを示している。つまり、奈良・平安時代を通じて日本の国の支配権は天皇家を中心とする貴族がこれを保っていた。ところが、そうした貴族の代表、藤原氏の権力が次第に弱体化し崩壊してきて、武士の力を借りなければもはや自分たちの権力争いを鎮めることができないという事態になった。そしてついに鎌倉時代になると、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、東国の力が西国にまで及び、全国に守護・地頭を置いて支配するということが起ってきた。
 これは日本の社会としての大きな力関係の変動であった。古い身分関係がこのあたりで崩れてきた。それまでの固定的な身分の上下関係が変化してゆき、新しい秩序はもちろんまだ確立しなかった。従って、相手が自分をどう扱うかということに対して、日本人はお互い細かい神経を働かせるようになってきた。西日本人の人も自分が低く扱われる場合があり、下層民や東日本の人もむやみに自分を低いものと扱わずに、相手を低く扱う場合がある。そういう身分関係の意識の混乱が起ってきた。そこで相手が自分をどう扱うかについて、人々の神経が非常に鋭くなってきた。

身分の上下関係がはっきりしている間は、ガやノの使い方は何の迷いもなく行われてきたのでしょうが、立場が逆転をしだすと、どこまでがウチでどこからがソトなのかさえ曖昧になってきます。
それまでは東国や防人の間で身内の感覚で使っていたガという助詞が、広く使われ出して、ノとして使っていた場面でも使われ出してくると、その区別の判断は難しいものになります。ただ、意識の中にあるウチとソトの区別は残っていて、それが未整理の状態のまま推移しているのが日本語の歴史だと言えそうです。
言葉の使われ方は時代の変化とともに、また主に使っている人たちの発信力・発言力とともに変化してゆくことは分かりました。

言葉は変化する。
でも、コロナ時代に使われているカタカナ語は残っていくかな。

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