道民割を使って白老ウポポイへ

道民割を使って白老にある旅館「ふる川」に宿泊を希望しているんですが、新聞では受付30分で予約分を完売したところもあると書いていました。旅館への電話予約もネット予約も全然つながらないみたいです。僕としてはJTBでの窓口予約相談を7月3日に入れているんですが、無理かもしれません。

白老の「ふる川」に泊まって、ウポポイ見学というコースを考えていましたが、どうかな?
旅行会社は、旅館との提携で年間の宿泊部屋数を確保していると思うので、それだけが頼みの綱ですがね。

白老にあるウポポイですが、HPにはこう記載されています。

 ウポポイ(民族共生象徴空間)について
白老町ポロト湖畔に誕生するウポポイは、先住民族であるアイヌの文化復興に関するナショナルセンターです。
ウポポイでは、国立アイヌ民族博物館・国立民族共生公園・慰霊施設が整備されます。

昔むかし、女房と道東を旅行した際に観光地であるアイヌコタンを訪れたことがあります。その中の木彫り実演を見せている所へ入った時に、本州から来ている旅行者らしい年配の方がいて、木彫りをしていたアイヌの方が僕らを見て「ここは何度目?」みたいなことを聞いたのではないかと思うのですが、僕の記憶では「道民だけど、ここは初めてきました」という趣旨のようなことを話したら、木彫りをしている人はその本州の旅行者らしき人に「これだからな」と言っていたのを覚えています。

道民である自分たちがアイヌの歴史を知らぬまま漫然と過ごしているということが、この木彫りの職人さんには気に食わぬのだなという印象をその場では感じた記憶があります。でも、訪れたここは観光地でしかありません。何かそのことの違和感が何十年も経った自分の中に残っています。

確かに、北海道開拓の歴史という話の中には、先住民のアイヌの人たちの姿が見えてきません。和人が開拓する前に、すでに人が、アイヌがいた訳で、またアイヌの人たちに助けられた開拓民も多くいたのですが、その話はどこからも聞こえてきません。

ただ、アイヌの歴史といっても、実際のところ、いつからここにいたのか、縄文時代の遺跡の延長にアイヌ文化があるのか、そこらへんもよく分からないのです。

『モノから見たアイヌ文化史』関根達人著、吉川弘文館発行。
この本の中に、「日本史の時代区分と北日本の文化変遷概念図」というものが掲載されています。

その中での説明です。
>今日では東北地方における縄文文化の終末はおおよそ2400年前頃、北海道におけるアイヌ文化の成立は一般に12~13世紀頃と考えられています。縄文土器の文様とアイヌ文様がいくら似ていても、直接的な関係性については否定せざるを得ないのである。
 縄文とアイヌとの関係よりも説明に時間を要するのが、蝦夷(エミシ・エゾ)とアイヌの関係である。通説にしたがえば、古代のエミシは律令国家に属さない東北地方の住民、中世以降のエゾはアイヌを指す。問題となるのが、縄文人とエミシ、エミシとエゾ(アイヌ)との関係である。
 本州北端の津軽平野では約2400年前に水田稲作技術が受容されているが、津軽海峡を隔てた北海道で本格的に水田稲作が始まったのは、19世紀である。津軽半島北端の竜飛岬と北海道南端の白神崎との間の距離は約20キロに過ぎないが、水稲技術は2000年以上もの間、アイヌ語で「しょっぱい川」と呼ばれる津軽海峡を越えることはなかったとみられる。
 その結果、北海道全域に日本史の歴史区分が適用されるのは、旧石器時代から縄文時代までと明治時代以降であって、その間は北海道独自に「続縄文時代」・「擦文時代」・「アイヌ文化期」に時代区分されている。

アイヌ文化に注目すると、どうしてもその独自性や自然との共生を求める精神世界が強調されますが、「蝦夷地の歴史は、アイヌをはじめとする北方民族と北方へ進出した和人の双方によって営まれた歴史であり、さらには中国やロシアとの関係性のなかで形成された歴史である」ということも忘れてはいけない点だと思います。
もちろん、蝦夷地が日本国に編入される過程で、また経済的な交易の中でもたらされた日本製品が、あるいは政治的社会的な施策がアイヌ民族の自立性を奪っていったことを忘れてはいけないことだと思います。

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