どこからはじめればよいのか

『古代天皇陵の謎を追う』大塚初重著、新日本出版社刊。

>大仙陵については『日本書紀』に「仁徳天皇六十七年冬十月五日に、天皇自身で河内の石津原に出かけて、自分の陵の場所を決定した」と伝えている。「丁酉(ひのととり)の日に陵を築き始めた」と記し、突然、野原から走り出した鹿が倒れ死んだことと、鹿の耳が百舌鳥に食いちぎられたという事件から、「百舌鳥耳原」と命名したという事情が記されている。

いつぞやのテレビでは、全国にある古墳の数は、コンビニの店数よりも多いと言っていました。いわばある時期からはネコ杓子も古墳を作っていたのでしょう。

巨大古墳群がある場所は海の近くであり、また川の水路から近くにあります。つまり、これらの古墳は崩御された天皇に対する敬虔な気持ちというより、中国・朝鮮からの使者に対し、自分の力を誇示する目的で建てられたのだろうということです。

しかし、本の題名にあるように、それらの巨大古墳は天皇陵として宮内庁が治定していますが、考古学の立場から言えばその根拠はいまだ確定したものではないということです。

古代史的には、『古事記』『日本書紀』『延喜式』らの書物での記述により、天皇の名前や崩御された年月、埋葬された場所などを辿ることはできますが、それぞれの本の記述は微妙に違うので、特定が難しいのです。
また、今でこそ天皇陵という存在を多くの人が知っていますが、戦国時代までの混乱期には古墳はそれこそ戦城としても使われていたようで、千年以上に及ぶ年月で古墳が原型をとどめていることの方が貴重です。

>日本の古代国家における最高政治的統轄者は、大和王権の最高権力者である天皇(当時は大王)であった。ところが「大和」という言葉は、七五七年より施行された「養老令」に初めて登場する用語である。
 大和王権とは、弥生時代の後三世紀から始まる古墳時代に「大王」などと呼称された倭国の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力である。
 「魏志倭人伝」では、二世紀後半に邪馬台国に卑弥呼があらわれ、それによって争乱がおさまり、三十国ほどの小国連合が生まれ、「親魏倭王」の印を授与されたと記しています。

 天皇という言葉も、1998年に奈良文化研究所が飛鳥藤原宮の調査で「天皇聚▢(霧?)弘▢(寅?)」という墨書のある木簡を発掘したことにより、また他の木簡に「丁丑年十二月」という干支記載例があり、同時に伴出した土器型式の年代によって、天武朝(690~)には天皇の称号が用いられていたことは確実になった。

つまり、ヤマト王権があった、天皇がいたという単純なことが、歴史をたどれば逆に難しくなっていくのです。
それは同時に、天皇はどこからきたのか、「日本人」はどこの時点から「日本人」になったのかという問いに繋がっていきます。

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