記憶すべきか忘れ去るべきか・・・コロナウイルス騒動体験

今、世界中で感染が広がっているコロナウイルスは、スペイン風邪やペストの流行という百年単位での出来事のように言われています。
もし、そのようなものなら、貴重な体験を自分たちはしているのだと言えます。

自分たちは、そのような体験をするために選ばれた人々だと語るのは少し大袈裟でしょうか。

そのような中で、このようなことを言うのは不謹慎と思われるかも知れませんが、人間はいつか死ぬものだということを皆は忘れているのだろうかと時たま疑問に感じます。

コロナウイルスで死ぬのも、交通事故で死ぬのも、インフルエンザで死ぬのも同じ死です。
医療が十分に受けられずに死んでしまうことだってあります。それはコロナウイルスだけの問題ではありません。

あなたたち自身の命のためですと言われれば言われるほど、何故かしらけて来るというのか疎ましさが募ってきます。

ただ、この国起きていることは、別な問題があるように感じます。

志村けんが死んだ状況や岡江久美子が死んだ状況を見ると、PCR検査がきちんと行われていればもっと早くにコロナウイルスの感染が分かり、死という結末を今聞かなくても良かったのではと思うのです。

国民の命が大切だと叫ばれながら、少しの症状ならPCR検査までのことではないと放置される。

この国の指導者が2カ月前にPCR検査を2万件まで上げていくと宣言をしたが、誰もその結果を追求しないでいる。

コロナウイルスの流行の過程で、シニア世代にとって死は身近にあるのだということを改めて自覚させられたが、それでも政治の無策でその死が突然きてしまうということには頭にくると一応は言いたい。

まあ、僕にはそのような覚悟みたいなものが芽生えているが、だからといって周囲の人が死んだら、そうとも言えないだろうと思う。
死をめぐっての話で、以下の文章を思い出した。

インドの神話に「夜が作られた」話がある。

この世界に、ヤマとヤミーという二人の神だけがいた。
兄妹であり、夫婦の二人。

二人は、仲良く暮らしていたが、ある時、ヤマ(中国では閻魔大王)が死んだ。
残された妻のヤミーは泣き嘆き悲しんだ。その悲しみがあまりに深くいつまでも続くので、困った神様は夜を作ったのです。

そうすると、残されたヤミーは「昨日、ヤマが死んだ」と嘆いた。

夜が来て、
次の朝、ヤミーは「一昨日、ヤマが死んだ」と嘆いた。

また次の朝、次の朝と繰り返すうちに

ヤミーは「ずっと昔、ヤマが死んだ」と言うようになった。

夜が記憶が作ったのか、記憶が夜を必要としたのか、人は忘れていく過程の中で記憶をつくりだしている。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント