それは、自然葬とは言いません。

「葬送の自由をすすめる会」が1991年に相模湾で海上葬をしてから、ビジネスとしても自然葬なる葬送儀式分野が言われるようになりました。
でも、自然葬とは海や山などの「自然界」に焼骨を捨てることをいうのでしょうか。

僕は違うと思います。
鳥葬や風葬などのように死体を置いたままにして、故人をあの世に送るのなら、それは自然葬と呼べるかもしれません。
でも、焼骨しその骨を粉末にしたものは、もう亡骸とは呼べません。

確かに古代の天皇で自分の山稜(山のように形造られた古墳)に骨を撒いて欲しいと願って実行した方もいました。でも、それは自分の古墳内での自然の山稜です。山全部がお墓なのです。

焼骨し粉末になった粉にさえ<魂>が宿っていると考えるなら、焼骨した際の煙にだって魂が宿っていたはずです。なんかゾンビの映画のようです。死体になったゾンビを焼いても煙が雨に交ざり墓地に降り注いで、死体がまたゾンビになるという映画です。

もういいじゃないかと思います。

<魂>は焼骨の粉末にも位牌にも宿らないと思います。
遺された自分たちの心にあるものだと思います。

この自然葬なる文化の出現も、一つにお葬式仏教の現状への不満や葬送をめぐる日本文化の面倒くささが根底にあるような気がします。

葬儀の際、そこの葬儀会社の人がベルコの人たちは樒(しきみ)がどんなものか分からなかったと貶していましたが、葬儀の際の樒はなんのことはない紙で代用していたので、分かるも分からないも意味のないことじゃないのと指摘したくなりました。

現代では自然葬とともに「墓じまい」なる用語で問題が語られているのも、同じような問題です。

もちろん経済的なこともありますが、葬儀会社が執り行う葬儀自体が我々の琴線に触れなくなったということでしょうか。
どこまでが意味があり、どこまでが装飾なのか、或いはすべてが装飾であり、本当の葬送はもっと別な所にあるのではという疑問・疑惑です。

それに葬儀会社の葬儀に唯々諾々としたがっている仏教の存在感のなさもあります。

ただ、日本人は周囲を見渡しながら自分の位置を確かめる文化ですから、自分で物事を突き詰めることは難しいでしょうね。だから、葬送の文化も様々な問題が噴出してきている現状でも、何も変化しないことも考えられます。

何が変わり何が変わらないのか、もう少し様子を見ましょう。

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