本当のこととは・・・

家を三度建てて見ると、ようやく自分の思い通りの家が出来るようになると聞いたことがあります。
同じように、葬式を三度出してみると、ようやく葬式を自分のものとして出せるようになった言う親戚の人がいました。

僕も母親が亡くなって葬式を出したときに、ものすごい違和感が残った記憶があります。
姉が取り仕切ったのですが、悲しみの中にいる自分達の存在が脇に置かれたままで葬式が進行した後味の悪さがありました。

そこから、僕が感じたのは葬式とは何か?その中で儀式の中心にある仏教とは何かという疑問です。

結論を先に言えば、仏教の教えに葬式の儀式のあれこれを書いたものなどないという事実です。
つまり、葬儀業者から言われるものは仏教の教えではなく、現代日本で一般化している葬送の儀式の例であり、そこには仏教の根拠などないということです。

日本的な仏教的葬送儀式にこんなものがありますというレベルでしかないのですが、悲しみに打ちひしがれている遺族にとっては、冷静な判断などできません。

死んだ者のためにも世間的にも恥じないようにという呪縛が出てきます。
そうすると、なんとなく上中下の中くらいでもとなっていくのです。

死んだ者のために生きている我々が出来ることは、つつがなく遺体処理をすることです。
しかし、遺体の処理だけでなく、我々自身の心の安定が必要になってきます。生きている我々の魂の置き場所というか、死んだ者との精神的なレベルでの別れ方がどうしても必要になります。

死者をどのようにあの世に送るのかという問題が出てきます。
本当を言えば、死んだ者はこちらの側の人間がどう考えようがあの世に行く訳で、こちら側の努力とか支援が必要ではないのですが、そこは今の日本仏教や葬儀業者はこういうことが必要ですと商売がはじまります。

僕自身にとっても、死んだ者をあの世に送るときに我々自身がどうあるべきかの答えはないのですが、今の日本仏教や葬儀業者のいいなりになることだけは避けるつもりです。

ただ、以下のような指摘ももっともだなと思います。
『私の万葉集 🈩』大岡信著、講談社文芸文庫。

>なにしろ私たちは、冠婚葬祭の場でとなえられる祝詞とか経文についても、意味はよく分からぬままに頭を垂れて有難く拝聴している民族なのです。祝詞はまだしも、お寺で唱えられるお経の場合は、元来が日本語とは言いにくい呉音、唐音、宗音などの経文の棒読みですから、これの意味がたちどころに分かったら大したものと言わねばなりません。
 つまり私たちは、古い昔からずっと、ある種の霊的価値を認められたテクストについては、それを合理的精神によって解明し、新しい世代に理解しやすいように噛みくだいて刷新しつつテクストそのものを変化させてゆく、というようなことには、あまり積極的価値を見出さずにきた民族であるらしいのです。

上記の指摘から考察するに、現代日本で起きている「墓じまい」などの現象が日本の葬送文化を変える可能性を宿しているのではという期待は、どうやら経済的処理方法レベルで終わってしまうだろうという諦めに繋がるような気がします。

『仏教、本当の教え』植木雅俊著、中公新書刊。
今回、上記の本を再読しましたが、その中で一番気に入ったのは「ブッダ」は固有名詞ではないということです。

>多くの呪文をつぶやいても、生まれによってバラモンとなるのではない。〔バラモンといわれる人であっても、心の〕中は、汚物で汚染され欺瞞にとらわれている。クシャトリヤ〔王侯・武士〕であれ、バラモンであれ、ヴァイシャ〔庶民〕であれ、シュードラ〔隷民〕であれ、チャンダーラや汚物処理人であれ、精進に励み、自ら努力し、常に確固として行動する人は、最高の清らかさを得る。このような人たちがバラモンであると知りなさい。


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