はじめての「奥の細道」

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芭蕉が旅紀行文『奥の細道』で辿った行程です。

『奥の細道 古典を歩く①』毎日グラフ別冊より

全然興味がなかったのですが、ドナルド・キーン氏の著書を読んでから、「奥の細道」を一度は読んでおこうと思って借りたら、なんとキーン氏が書いた英訳の「奥のほそみち」でした。

それで普通の解説本をと借りたのが上記の本です。

芭蕉は「奥の細道」での紀行で、東北地方まで足を延ばしています。

上記の本の中の文章「変わりゆく風土の中の不易の心」石 寒太(俳人)より
>このころ東北地方は、奥羽・奥州・奥・陸奥・みちのくなどとよばれた。「むつ」は道の転じたもの、「みちのく」は、道の奥の奥といわれた。
「みちのく」は、古代から国の果て、奥知れぬ道のさい果て、蝦夷の住む土地としておそれられた。だから、文字どおり未知の国であった。平安時代には、それが「奥よかしさ」になり、貴族や歌人のあとをとどめる地方にもなった。

<旅立ち>
 元禄二年(1689)、三月二十七日(陽暦5月16日)、芭蕉は住みなれた庵を人に譲り、歌枕を訪ねる旅に出た。

 行く春や鳥啼き魚の目に涙

<むすびの地>
 好天の十六日(陽暦9月29日)、芭蕉は海路を色の浜に向かった。それは、色の浜が西行ゆかりの歌枕であったからにほかならない。

*「おくのほそ道」は、元禄二(1689)年、芭蕉四十六歳の春から秋にかけて行われた奥羽・北陸地方への大旅行であった。日数にすると150日、旅程は2340キロにもおよんだ。

 蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

「奥の細道」が紀行文であっても、そこに掲げられている俳句は全体の調和を考えて選ばれています。また、俳句は事実に基づいて書かれている訳ではなく、紀行文にふさわしい形で作られていることが指摘されています。

せっかくなので原文を載せます。

<序章>
 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。船の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上(かうしょう)の破屋に蜘(くも)の古巣をはらひて、やや年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心くるはせ、道祖神のまねきにあひて取(とる)もの手につかず、もも引きの破(やぶれ)をつづり、笠の緒付(をつけ)かえて、三里に灸(きう)すゆるより、松の月先(まず)心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、
  草の戸も住替る代ぞひなの家

面八句を庵の柱に懸置(かけおく)。

<旅立ち>
 弥生も末の七日、明ぼのの空朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二の峰幽(かすか)にみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。
  行春や鳥啼魚の目は泪

 是を矢立の初として、行道(ゆくみち)なをすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送なるべし。

<大垣>・・・最終章
 露通(ろつう)も此みなとまで出(いで)むかひて、みのの国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄(しょう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より来り合、越人(えつじん)も馬をとばせて、如行(じょかう)が家に入集る(いりあつま)。前川子(ぜんせんし)、荊口父子(けいこうふし)、其外(そのほか)したしき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまぜるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

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