恥ずかしながら

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

有名な正岡子規の俳句ですが、最後の「法隆寺」は、実は東大寺が最初で、音の響きから「法隆寺」に直したとドナルド・キーン氏の著書で知りました。

音の響きが、俳句で重要なのだと改めてキーン氏から教わりました。

例えば、芭蕉の有名な句、

夏草や兵どもが夢の跡

この句は、ローマ字に書く直すと分かりやすいのですが、Oの音が多いのです。このOの音は、洋の東西を問わず、詩人たちが悲しい音だと考えていたと指摘しています。

閑さや岩にしみ入蝉の声

この句は、イの音が多いのに気がつきます。このイの音は、これ自体がセミの声に似ています。芭蕉がセミの声を聞いて、その音を自分の句の中に入れたのだと考えてもいいのではないか、と私(キーン氏)は思っています。

テレビのバラエティーでやっている俳句添削の先生は、映像として現わせと指導しています。おそらく正岡子規が提唱した写生ということを現代的に言い換えているのだと思いますが、まさかドナルド・キーン氏から俳句での音の重要性を聞くとは思いませんでした。

そして、石川啄木に見る日記文学の評価も面白い指摘です。

正直、僕自身の本の読み方選び方は正統的ではないのですが、ここはどっしり構えてドナルド・キーン氏の著作を道しるべとして、古典から読み込んでいきたいですね。

恥ずかしながら、65歳での決意です。

ところで、日本文学が国際的な評価を得る1つのきっかけが、太平洋戦争にあったという事実に改めて気づかされました。

「翻訳者たちの活躍」
>戦後の日本文学は、いずこの国であるかを問わず、諸外国の文学作品と比較して評価すべき価値を備えていたが、もし戦後に著しく数を増した日本文学の翻訳者集団が存在しなかったら、戦前と同様に、相変わらず世界から無視されてきたことだろう。実は太平洋戦争のさなか、アメリカの陸海軍はアメリカ人青年数千人を対象に、日本語を修得させる特別訓練を施していた。その目的は、もちろん日本の文学を通暁させることではない。軍部は太平洋の戦場で、もしくは戦死した日本兵の遺体から入手した文書類を英語に翻訳し情報を集める要員、あるいは捕虜になった日本兵の尋問にあたる通訳を必要としていた。こうした目的から特訓を受け日本語を修得した多数の語学将校のうち、やがて日本の文学作品の翻訳に興味をいだくようになった者は、せいぜい二十-三十人にすぎなかったろう。しかし、それだけでも、日本文学の翻訳者の数が大幅に増えたといえる。
『第一巻 日本の文学』ドナルド・キーン著作集、新潮社。

つまり、太平洋戦争が起きなかったら、日本文学はいつまでも世界の舞台に登場できなかったのです。なんか複雑な思いがします。

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