馬疲らしに

<馬>という語が出てくると反応する馬バカになったようです。
万葉集の解説本を読んでいたら、<馬>が出てきましたが・・・

見まく欲(ほ)り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲らしに
                                     大伯皇女(おほくのひめみこ)

現代訳・・・逢いたい、見たいと私が思う方もいないのに、どうしてやって来たりしたのだろう、馬を疲れさせるためにだろうか。

「大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌」とあります。

「大伯皇女」は大津皇子の同母姉。天武二年十四歳で斎宮として伊勢神宮におもむきましたが、大津皇子の処刑により、朱鳥元年十一月解任されて都に還りました。

「大津皇子」は天武天皇第三皇子。母は皇后(後の持統天皇)の姉で天智天皇皇女の大田皇女。文武両道に秀で、諸人の支持の厚かった皇子。漢詩人としても当代有数の名があり、草壁皇子とともに皇位継承の有力候補者でしたが、天武天皇没後二十五日目の朱鳥元年(686年)十月三日、謀反のかどで二十四歳で処刑されました。
十月二日に謀反のかどで捕らえられ、翌三日に処刑されました。

大舟の 津守が占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて 我が二人寝し
                                            大津皇子

当時の陰陽道の大家が、大津皇子が草壁皇子の侍女と密通していると占いで暴露したとありますが、大津皇子は占いで二人のことが明らかになることを承知で愛し合っているのだと歌っています。

つまり、事前に張り巡らされている策略をすでに承知しているのだが、もう自分の力ではどうしようもできない状況がそこにあったということです。

これが史実から見た天皇家の歴史です。

ちなみに、当時の喪葬令に、親王および三位以上の地位の者については「薨」、五位以上および皇親については「卒」、六位以下庶人にいたるまでは「死」とそれぞれ称するべく定められていました。
つまり、<死>に関してもその地位で呼び方が変わるのです。

『私の万葉集』大岡信著より

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