「日本人はいつから働きすぎになったのか」礫川全次著、平凡社新書

本の帯には<「自発的隷従」のメカニズムを探る>・・・二宮尊徳、吉田松陰、松下幸之助といった勤勉家を通して見えてくる「日本人固有の勤勉性」とは

日本人の勤勉性を支えているものの章の最初が、『ついに「ブラック企業」と言う言葉が、死語になったという。あらゆる企業がブラック化してしまったからである。』
というジョークから始まっている。

過労死、過労自殺が、何故これほどまでに日本人の労働者にとって避けて通れない問題になったのか?
強制的な労働ではなく、「自発的」と称される労働に駆り立てられる日本の労働者。
それはいつ頃から始まったのかと言う問題として書かれています。

明治期に修身の教科書に象徴的に取り上げられた二宮尊徳は、実は農民の意識改革に成功はしていなかった。
ここの問題は、二宮尊徳が<修身>の教科書に取り上げられた事の意図ではなく、その実像はどうだったか?彼の実践は成功したのかという視点から書かれています。

明治期において農民の意識改革に貢献したのは、浄土真宗の教義だったと言う証明。
浄土真宗の教義は、<他力本願>であり、<自力本願>に対しての批判から形成されたのに、何故当時の農民の<勤勉さ>を培う方向になったのかを述べています。
「北門信徒は、信仰によって間引きを忌避していた。その結果、人口過剰になり、他の地域への移住を受け入れる事になった」と江戸時代の北門信徒の歴史を研究している方が述べています。
また、どこにいても阿弥陀様により守られていると言う教義が後押ししたと思われます。

日本のマックスウェーバー学者は、労働者の<勤勉性>が<働き過ぎ>の弊害を生んでいる事実を認めようとはしていない問題も指摘しています。
働き過ぎが勤勉性に依拠している、或いは派生していると言う問題をどう捉えるか。
倫理としての<勤勉性>を、<働き過ぎ>と言う問題と別物として扱うことははたして正しいことなのかが問われています。
つまり、<働き過ぎ>を企業とそこに働く労働者との雇用関係、労働条件だけの問題として扱っても、そこは法律問題や労働問題、労働組合問題になっても、本当の根っこの問題に到達しないという気がします。
そこには、倫理や文化という問題があり、また、本当の意味での経済の問題があるように思います。誰もが真面目に一生懸命に働けば、企業が栄え国が栄えると言う単純な図式でいいのかということです。

落語ではないけど、
何のために働くのかと問われて、将来気楽に暮らしたいからと言って、夕食での一家団欒もなく、単身赴任で家族バラバラで、まさに<働き過ぎ>になって過労死をするなら、今からでもグダグダと不真面目に働いている方が、家族のため、自分のためではないのか。
そういう主張を、最後にしています。

怠惰は何故、ダメなのか?そのことを本当に考えた事があるのかと言っています。
老人や障害者が社会の中で暮らしていけると言う問題は、<勤勉>な労働者と対極に位置する関係になります。<勤勉>=高い労働生産性と言う図式です。
<勤勉>が正しくで、<怠惰>が悪ならば、低い労働生産性の人間は悪なのかということです。

著者が在野の研究家である事が、自由な発想を生んでいると思います。おそらく彼の主張は、大学の研究部門では認めて貰えていないのだろうと言う構図も透けて見えてきます。

なかなか面白かった本です。
そして鋭い問題提起もしています。

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