「わかっちゃった人たち」サリー・ボンジャース編、古閑博丈訳、発行:星雲社

『悟りや覚醒についての本は無数にある。仏教や禅やアドヴァイタは言うまでもなく、あらゆる文脈で教えが語られている。(中略)そんな本の中でこの本に何か意味があるとしたら、それは普通の人たちが素のままで、そして教えるという文脈ではないところで体験(悟りをひらいたと思えた・・・私の注釈)を率直に話しているという点にあるだろう。」訳者あとがきより

オウム真理教の麻原彰晃が、インドに行って何年の何月何日に最終解脱をしましたみたいなことを書いていたのか言っていたという記憶がある。テレビ視聴での記憶だが、自分が起こした宗教だから資格試験や受戒と言う儀式もなく、言った者勝ちみたいなところがあるなとその時は思っていた。

宗教が唱える<悟り>や<覚醒>が、熟練の技能を持った者が弟子に伝えるという「一家相伝」のたぐいとは違うだろうと言うことは分かる。
また、序列・階級が整理されている宗教組織に置いてはトップ交代の儀式もシステムとして出来上がっているだろうが、それは<悟り>や<覚醒>とは別次元のものだろう。

ただ、トップになればそれなりの重責が出てくるだろうし、それをこなすうちに生まれてくる意識変化を、何かその類のものと見誤る危険性はある。

で、読んでみると「分かっちゃった」普通の人たちは、共通のあることを言っているように思える。

①分かっちゃったことで、自分の日常が劇的に変化はしない。
②思い悩んだり、人と衝突することもある。それは特別に無くなりはしない。ただ、それは全体の中の流れの中にあると言う感覚。
③「マインド」(思考を指しているのか正直不明だが、多くの人の訳に出てくる)は重要ではないんだ。「マインド」は何かが起きると「マインド」の中で答えを見つけ出そうとするがそれは違う。意味がないんだ。それは、ただあるだけなんだと言う感覚。
④劇場の中の一部とか、自分と世界が一体化しているとか
⑤気にならなくなる。

どうだろう。
ものすごい喜びが起きてきたという人や次はどうなるんだろうとわくわくすると話している人もいる。

鶴見俊輔は「ゲーリー・スナイダー・・・人間の原型に帰ろうとした詩人」の中で、自身のLSD体験を書いている。
ベ平連運動の1つとして行われた米兵の脱走兵をかくまう活動でゲーリー・スナイダーに世話なり、その際に
LSDを勧められての体験である。
LSDが合法的などうかではなく、世話になった人から勧められたので礼儀として断らなかったと言うことらしい。

『スナイダーは言った。
 これは、体に悪い。しかし、もう一度、日の光がさす野原で、これを服用すると、世界が新しく見える。』

鶴見の言葉「ようやく動けるようになったので、立って小便にいくと、朝顔に小便が走って行くのが見えて、自分の体が見えない。何もないところから、小便が走って壺の中に入っていく。自分は無く、行動の結果のみが、小便のように世界に、しばらく残る。
 次の朝、縁側に立って庭を見ていると、キリギリスが一匹向こうにいた。すると、自分がキリギリスに中に入って、そこから自分を見ている。」

上記の体験記は<悟り>とか<覚醒>とか言っている人たちが指し示す境地に近いのではないか?

「歎異抄」に、<早く極楽浄土に言って心穏やかになりたいと願いながら、この娑婆世界から離れられないことこそが、我々の煩悩そのもののだ>と書いている。
「歎異抄」に書いてる上記の言葉が、自分にとっての<悟り>への感覚、距離感に一番近い。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック