死に近い宗教なのか?

お釈迦様が王子の地位・身分を捨て修行の道に入ったのは、人間が生まれた時から持つ生老病死の四苦と生きる過程で味わう愛別離苦の苦悩、つまり四苦八苦という苦悩からいかに心が自由でないのかどうしたら心の平穏を日々保つことができるのかという問題とぶつかり答えを見出すためだった。
もちろん、そこにはゴールが用意されていた訳ではないから、さまざまな修行が試されただろうし、さまざまな考え方を再度自分の中で辿ってみただろう。

悟りを開いた地点を涅槃ともいい、浄土ともいう。もちろん、場所的な問題であろうはずはないが、浄土へ到達したものは再度衆生を救うために迷いの地にいる者のところへ舞い戻るとも書かれている。
涅槃=浄土が、<あの世>死んだ先の世界のことにも使われるのは、死んだ世界が現生の迷い・苦悩から自由になれるものとして、死=即浄土として浄土系仏教では言われるから間違いとは言えない。
別な言い方をすれば、浄土なら迷いも苦悩もないから、死は忌避すべきものではないことになる。

つい先日も、浄土真宗のお坊さんが通夜の説教で、生きることは苦である。わたしたちは苦をもって生まれてきたと、<苦>をあまり強調するから女房の友達が説教を嫌がっていた。
説教があまりうまくなかったとはいえ、仏教から言って正しい教えである。

ここまで来ると生も死もそれほどの重要さがないように思う。
死にそうな奴に死ねとは言わないが、生きることも死ぬこともどちらが大事とは仏教では言ってないような気がする。

別な質問をしてみよう。
悟りとは何か?涅槃とは何か?浄土とは何か?
それは態度なのか。考え方、もののとらえ方なのか。行動規範なのか。

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