因縁・・・「うさぎや羊の毛の先についた塵ほどの小さな罪であっても・・・」

<因縁>という言葉は、ヤクザやチンピラ、あるいは不良学生などでも「なにを!俺に因縁つけるのか?!」なんて使うから、日本語としては定着しているんだろうが、思想としては難しい。

歎異抄に「善い心が起るのも、過去の世の行いがそうさせるからです。悪いことを考え、それをしてしまうのも、過去の世の悪い行いがはたらきかけるからです。」と書いている。「うさぎや羊の毛の先についた塵ほどの小さな罪であっても、過去の世における行いによらないものはない」とも書いています。
これは、仏説無量寿経の中にも、王と乞人を並べて、それぞれが王となたっり乞人となったりするのは過去世での行いであると書いている。

同時に上輩・中輩・下輩、あるいは上品・中品・下品などと位階制のごとく書いているが、これが、中国仏教の限界なのだろう。
絶対神がいない代わりに、序列が付けられている。

話が横道にそれた。
この因縁の思想は、自分をあるがままに受け入れるときに自省する苦悩を省いてくれる効能はある。何故なら、自分がこうして今あるのは過去世による因縁によるものなのだから、自分がそれを嘆き悲しんだり苦しんだりすることは意味がないのだと教えてくれる。

インチキ宗教は、こういう場合、だから先祖供養をしなさいだのと脅かすだろうが、過去世での行いが消えるわけはないから意味がなく、<因縁>がインチキ宗教にとっては商売道具の1つでしかないというのが分かるのだ。
それじゃ、王として生まれたものはよいとして、乞人の家族に生まれたものは納得できるのかという問題になる。
そうはいっても、お釈迦様だって王子の身分を捨て袈裟に身を包み(袈裟とは、布をわざと裁断をし、袈裟色という不浄の色に染めて着るものにしたということだ)修行に出たのだから、どこに生まれ出たのかは関係ないと云えばいえる。
でも、選択肢がある人間とそれしか道がない人間とでは不公平だし、それが過去世の行いですと言われた日には、「なにそれ!」って叫びたくもなる。

仏教は、最終解脱を目指す小乗仏教から、衆生救済の大乗仏教に変わるときに、大きく変節をしたことは間違いないが、それが思想の進化なのかは分からない。
すべてのことには理由があり、すべてのことがらは変化する。
簡単に云えば、それが<因縁>の意味なのだろうが、書いている自分でさえよく分かっていない。

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