予定調和的世界からの逸脱・・・<こころ>とはなにか、どこにあるのか その④

『その上縁は鋸歯状をなしていて、おそらく鋭利な工具によって切断されたものに違いない。その下縁は今。向こう側に折れ曲がった状態で私の視線の届かぬ所にあるけれど、その形態が上縁同様である事はほぼ確実に想像できる。』
上記の詩は、谷川俊太郎詩集「定義」の中に載っている『そのものの名を呼ばぬ事に関する記述』と言う詩の始めの部分である。
この詩が指し示しているものは、「HARISの銀色の包み紙」(チューインガムの)である。

僕達が、普段何の意識ももたずに繰り返している日常生活は、暗黙の了解とも言うべき予定調和的な関係が、歯車のように組み合わさっていて、いや、それすらも意識することなく動いていて、その中の僕自身でさえ、他の誰かと入れ替わっても分からないような世界にいると言える。
しかし、空気のような予定調和的な世界で、ひとたび<ハリスのチューインガムの包み紙>をそのものの名で呼ばない、或いはそれは本当に<ハリスのチューインガムの包み紙>と呼ぶべきなのかと疑いだした時に、僕達を包んでいた世界は、少しづつ亀裂を見せる。
いや、亀裂を見せているのは世界の側ではなく、<自分>の方ではないかと思えてきたらどうするだろう。

それは、お互いを了解している決まりごとが、ひとつづつ壊れていくと言う事だし、しかも壊しているのは、あくまでこちら側の感覚であるとしたら、相手は了解するだろうか?
つまり、予定調和的世界が壊れていく過程は、自分の<こころの中>で始まっているのだが、それは誰にも分からないところで進行しているとしたら、それは病んでいるということか?

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